別居で介護

旦那様の両親の介護を卒業した途端、実家の父の介護がスタート。

同居で介護


 病院からの電話は地域医療の
 担当者さんからで


 入院から3ヶ月を過ぎたので
 別の病院を探して欲しい。
 2日前から肺炎で熱があるけれど
 熱が下がり次第、転院して欲しい。


 と言われ、転院先について
 相談したいから、午後にでも
 病院に来て欲しいと。


 そもそも転院の必要のない療養を
 受入れてくれている病院だと思って
 入院していたので、転院の話は
 寝耳に水でした。


 次の病院の宛などないので
 とにかく支度をして病院に行こうと
 電車のルート検索を掛けていたら
 再度病院から電話がありました。


 今度は病棟の看護師さんでした。


 お父様の様態が思わしくなくて
 いつ急変してもおかしくないので
 今から病院に来られますか?と。


 ???


 今、地域医療の方から電話で
 熱が下がり次第転院して欲しいから
 相談に来て欲しいと連絡頂いたのに
 なにかの間違いじゃないですか?


 と、聞いたのですが


 地域医療の者とは今日は会ってないので
 情報共有出来てません。
 すぐに来られた方がいいと思います。
 いらっしゃいますか?と。


 すぐに行きます。


 と、返事をして、タクシーを呼んで
 旦那さんに電話をして。。。


 来てくれたタクシーの運転手さんが
 たまたま義父さんを知っていて、
 とにかく病院へ急いでくれました。


 簡単に看護師さんが状況を
 説明してくれたのですが
 朝から私を呼んで欲しいと
 看護師さんに訴えていたようです。
 コロナ禍なので面会ができないと
 説明すると納得し、しばらくすると
 また、私を呼んで欲しいと繰り返して
 いたとの事。


 呼びかけにも、手に触れても
 反応のない義父さんは
 酸素を充てがわれ、体中に
 コードをつけられていました。


 今夜が山かもしれないので
 付き添っていても良いと言われたので
 病室から電話をする許可をもらい
 旦那さんに状況報告伝えていると
 一度病室を出た看護師さんが
 戻ってきて


 モニターだと、
 かなり危ない状態だから
 話し掛けてあげて。


 と。


 携帯をスピーカーにして
 義父さんの耳元にあて
 旦那さんが義父さんに
 話し掛けました。


 頑張れよ、親父!
 明日には会えるからな!


 旦那さんの声が
 病室に響いた時


 ほんの少しだけ
 義父さんの表情が緩んで見えました。


 義父さんに聞こえてる。
 ちょっと笑った。
 と、旦那さんに返しました。


 旦那さんも義父さんの声が聞けるかと
 続けて話し掛けたのですが
 義父さんが声を出すことも
 目を開けることもなく


 その後すぐに別の看護師さんが
 病室に入ってきて。


 お父様、たった今
 お亡くなりになりなりました。
 (モニターをみていたようです。)


 と、静かに言われました。


 その声は旦那さんにも届いていて
 少しの間、皆言葉もなく
 義父さんを見つめていました。


 多分、
 旦那さんの声が聞こえたから
 義父さんの表情が緩んだんだと思います。


 本当にぎりぎりで
 声が届いたんだと思います。

同居で介護


 義母さんの葬儀には
 義父さんも車椅子で参列しました。


 コロナ禍だったので家族葬で
 小さな葬儀でした。


 少し弱気になった義父さんは
 誤嚥が増えて肺炎を起すことが増え
 ヘルパーさんに加えて
 訪問看護さんもお願いし、
 肺炎の時は自宅で抗生剤の点滴を
 してもらったりしていました。


 少しずつ 認知が進み
 昼夜関係なく起きたり、寝たり。


 夜中でも、明け方でも思いつくまま
 大声で誰かを呼んで叫んだり。


 排便コントロールもできなくなり
 訪問看護さんの回数を増やしたり。
 訪問診療もお願いしました。


 福祉の手を借りても
 思うままにならない
 義父さん自身のストレス。
 そこからのケンカや衝突。
 進む認知への不安。


 私も旦那さんも寝不足と疲れ、
 ストレスでふらふら。


 精神的にも体力的にも
 介護の負担が大きくてなって
 施設にショートをお願いする事に
 なりました。


 家に居たい。
 ここで死にたい。


 義父さんの希望でしたが
 繰り返す誤嚥の咳こみが酷く
 栄養状態も良くなくなり
 療養という形で入院する事になりました。
 義母さんが亡くなって
 3ヶ月くらいが過ぎた頃の事でした。


 コロナ禍で面会もできず
 着替えを届ける時に
 好物と手紙を添えるくらいしか
 できませんでした。


 義父さんは大学ノートに
 差し入れた手紙を貼っては
 眺めていたそうです。


 入院から3ヶ月くらいが
 過ぎた頃。
 入院先の病院から電話がありました。

同居で介護


 そんな訳で再婚と同時に始まった介護生活。


 義父さんは90歳半ばで、
 年相応の物忘れはありましたけど
 気遣いの細やかな社交家でした。


 足が弱ってしまいベッドでの生活
 でしたけど、同居を始めた頃はまだ
 トイレにはひとりで行けていました。


 以前からヘルパーさんに入浴補助を
 お願いしていたそうですが、
 ヘルパーさんとのお喋りが
 何よりの楽しみだったみたいです。


 義母さんは90歳を少し過ぎて
 認知が進み、同居の少し前に
 特養の本入所が決まりました。


 週末、会いに行くのですが
 旦那さんの事もすぐには思い出せず
 大好きなプリンとジュースを
 食べながら、あら?息子?と微笑む
 感じでした。


 半年くらい通ううちに、名前は
 覚えてもらえなかったけど
 息子の嫁?と覚えてもらえました(笑)


 それから更に半年が過ぎたある日
 施設から旦那さんに電話がありました。


 お昼寝中のお母様が
 呼吸をされていません。
 救急車を呼びますか?
 救急車をよぶということは
 延命治療する事になります。


 ひと月程前から
 食事量は変わらないけれど
 吸収が悪く栄養状態が良くない。
 腎臓の機能が極端に落ちている。
 と、先生からの話があり
 薬やハイカロリー食品などで
 様子見をし落ち着いたばかりで。


 今後について先生から話がある
 との事でので、近々施設に行く
 予定をしていた矢先でした。


 旦那さんにも私にも、多少
 覚悟はありましたけど
 すでに息がないという状況に
 言葉を失いました。


 呼吸が止まってから、どのくらいの
 時間が経っているのかも分からないし、
 延命治療で肋骨が折れて
 苦しい思いをさせるのも。。。と


 施設の医師に死亡診断をお願いしました。



 いつも、プリンを食べた後の
 冷たいその手をとって
 私の両手にはさんて温めると


 あったかいねぇ。。。


 と、静かに微笑んでいた義母さん。


 介護らしいことは
 何もしてあげられなかったけど
 親孝行はそれなりに
 できたんじゃないかと思います。


 最後の面会の時、珍しく
 車椅子から立ち上がろうと腰を上げ
 息子の名前を呼んで手を振ったのは
 何か予感ががあったのかな。。。と
 思ったりもしています。